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by ふっふ
 
今、ネットで見られる!日本のアニメ 戦前・戦中・戦後 ~戦前・戦中・戦後⑧~
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今、ネットで見られる!日本のアニメ 戦前・戦中・戦後 ~戦前⑥~大石郁雄と「J.O.スタヂオ」
今、ネットで見られる!日本のアニメ 戦前・戦中・戦後 ~戦前⑦~詳細不明の作品

主に参考にしてる本
『日本アニメーション映画史』 日本のアニメ 戦前・戦中・戦後


戦時中のアニメ作品で『桃太郎 海の神兵』またその前作品『桃太郎の海鷲』の監督で知られているアニメーター瀬尾光世と、
瀬尾の作品に技術・背景美術として参加し、戦後の日本の「人形アニメーション」の父となる持永只仁の戦後の中国での制作についてまとめていきます。

動画が多く貼られているので、重いページになると思われます。お気を付け下さいませ。




・1932年、京都で制作をしていた政岡憲三はトーキーアニメを制作するための資金などの援助をもらうために東京・蒲田の松竹を訪ね、契約する。
 瀬尾光世は上京中の政岡を訪ね、弟子入りしたい旨を直談判し「政治活動をしない」という条件付きで承諾される。
 瀬尾は兵庫県姫路市の生まれで、1930年の満二十歳の誕生日を迎え「絵を勉強したい」という希望を胸に上京し、絵画の研究所に通いつつアルバイトをしていた。
 1931年、知人の紹介でプロキノで線画を描くアルバイトをはじめ『三吉の空中旅行』などを手がけ(未完)、これを切っ掛けに「もっと本格的にアニメを勉強したい」と政岡を訪ねたという。

・政岡の下では、1932年『力と女の世の中』、1933年に『仇討烏(前編)/ギャングと踊り子(後編)』を制作。


・1933年の暮れには、政岡のもとでセルロイドの使用やトーキーの技術などを身につけた瀬尾は政岡のもとから独立し、東京に「瀬尾発声漫画映画研究所」を創設する。
 「日本漫画フィルム研究所」の専属として制作。
 1933年『お猿の三吉・防空戦の巻』
・1934年『お猿の三吉・突撃隊の巻』『元禄恋模様・三吉とおさよ』や、会社のPR映画『豪力坊や熊退治の巻(鉄腕金太郎坊や、消化剤のCM)』などを制作。
・1935年には、「のらくろ」の『のらくろ二等兵』『のらくろ一等兵』、『いなばの国の兎さん』、『一寸法師ちび助物語』『お山の大将』を制作。
・1936年『お猿三吉・おい等の艦隊(お猿三吉・おらが艦隊)』
・1937年『守れ、鉄路』


 1937年、ディズニーは『風車小屋のシンフォニー(丘の風車、村の水車、The old mill)』を奥行きを表現できるマルチプレーンのテスト作品として制作。
 フライシャーも「ポパイ」シリーズのひとつ『ポパイの空中戦(I Never Changes My Altitude)』では背景にミニチュア・セットをおき、線遠近法と空気遠近法を表現。
 マルチプレーン・カメラとは、数枚のガラス・パネルを水平に距離をあけて重ね、各パネルに風景の画をのせ、最上部にそなえられたカメラから撮影する装置。
 パネルは可動式で各パネル間の距離を調節でき、さまざまな奥行き感を生み出すことができた。
 日本でも1940年に横浜シネマ商会がマルチプレーン機を試作し『こがね丸』という作品を制作(未完)。

・1938年『わかもと行進曲』『日の丸旗之助・山賊退治(三太と山賊、テク助物語)』両作品ともに消化剤のCM
 「瀬尾プロダクション」を設立し独立、4人の社員と共に「芸術映画社」のタイトルや線画部門の仕事もユニット契約し請け負った。


・1940年『テク助物語・40匹の狼(40匹の盗賊)』『あひる陸戦隊』
 「芸術映画社」に社員ごと合同され、軍関係の教材映画の線が部門を制作。兵器の説明や戦略地図上を戦車が進んだり、砲撃が炸裂するさまを描いたりしたという。
 持永只仁は大正8年・1919年朝鮮半島の北に位置していた満州生まれであり、日本に戻り日本美術学校図案科で学ぶ。
 スタレヴィッチの『魔法の時計』(1928年)を見て動画映画に興味を持ち、卒業制作にもアニメを取り上げた。
 卒業後は舞台美術の仕事などをしていたがアニメ制作への熱望は高鳴り、瀬尾のいた「芸術映画社」へ入社して動画の背景などを担当した。
 持永は美術監督(背景の総作画)、特殊効果パートの動画、また監督と共に四段マルチ等を扱う撮影技術など瀬尾の作品の片腕を担う存在として扱っていいのではないだろうか。


・1941年『アリちゃん』
 瀬尾と持永とでマルチプレーンカメラを制作し、『アリちゃん』では4段マルチを使用。
 12月、真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まる。


・1942年の新年、瀬尾の所属する芸術映画社の社長と、動画制作担当者である瀬尾が海軍報道部から呼び出しを受ける。
 海軍が東宝映画に劇映画『マレー沖海戦』の制作発注することと、アニメ映画を一本どこかの社に発注するらしいということを聞いていたので用件はほぼ分かっており、
 これが真珠湾攻撃の成功を描く『桃太郎の海鷲』の発注であった。
 細々とした経済的な制約もフィルムの心配も無用という話で、日本で初めての長編アニメの制作であった。

 中国の長編アニメ映画で、万籟鳴と万古蟾の"万兄弟"と70人のスタッフが3年をかけて制作した『西遊記・鐵扇公主の巻』が公開され人気を博す。
・『桃太郎の海鷲』も1943年の春に完成、上映され最良の興行成績をおさめる。



 海軍省に出入りしていた瀬尾は、日本兵がシンガポールから持ち帰ったディズニーの『白雪姫』と『ファンタジア』を見、
 自分たちの設備拡充とスタッフの増員の必要性を痛感。社長に訴えるが聞き入れられず、1943年夏に「芸術映画社」を退社する。
・1944年2月、退社した瀬尾に松竹、東宝、理研、日映から誘いがかかる中、瀬尾は松竹に入社する。


 持永只仁は「芸術映画社」も合併された「朝日映画社」で1944年『フクちゃんの潜水艦』制作。
 その後、健康を崩し静養のため、母、祖母、娘を伴い母方の両親が住む満州へ行き、元芸術映画社のシナリオ作家が満映で働いていたことを国策の映画会社「満州映画協会(満映)」を訪ね、スタジオで働くことになり指導役となる。
 満映の職場では中国人への待遇が酷く、青年たちを雑役に使い映画合成の仕事につきながら机1つ与えていなかったので、倉庫には机がたくさんあったところを、持永は係長に机を1人に1つずつ与えるよう要求することから始め、中国人の信頼を一気に得ることになる。


 瀬尾が松竹へ入社した後、松竹は海軍省からの大作アニメ映画『桃太郎・海の神兵』の発注を正式に受ける。
 松竹には『くもとちゅうりっぷ』を制作する政岡憲三も所属しており、『桃太郎・海の神兵』影絵部分とを担当する。政岡が動画の養成をしたという話もある。
・一年の制作期間をかけ1945年3月完成。
 当初50人でスタートした制作スタッフも、最後には半数の25人程度となり、男は出征、女は軍需工場へ徴用にかり出されていた。
 戦争はいよいよ終局を迎え、米軍からの本土空襲がさらに激しくなる。
 3月10日、東京は大空襲を受け、4月20日に公開するが、観客である都会の子供は皆疎開して町にいず、壊滅状態の東京では映画どころではなかった。
 5月27日、東京・築地の歌舞伎座も直撃弾を受け炎上、隣接していた松竹の漫画映画部も全焼し、人材だけを残してスタジオと機械設備を失う。
 8月、とうとう戦争は終わりを迎える。


・持永は、中国での名を「又名方明」と呼ばれる。
・敗戦を迎え「満映」解散。9月頃、元満映で働いていた中国人の青年に声をかけられ「東北映画工作者連盟(後の東北映画会社)」に迎えられる。
・1946年5月中旬、ハルビンへの移動と、中国共産党の指導のもと本格的に映画の仕事を始めるのでぜひ協力してほしいという話を受ける。
 持永は自分の技術が役に立てるものならと賛同。
 移動の際、動画撮影台の搬出の指示がないので「この機材がなければ、自分の仕事はできない」と訴えて自分で機械を分解し搬出した。
 ハルビン、佳木斯を経てさらに奥のソ連との国境地帯である興山(現・鶴崗市)という炭鉱の町へ着く。
 持永は人生の中でもここでの生活が一番楽しかったといつでも口にしていたという。
・興山は日本人の炭鉱技術者の住居跡で、この山の中にあった日本人小学校跡に撮影所の建設始めた。
 このスタジオに、中国東北地方の農村から集まった15~18歳位の青少年が300名程やってきて、映画訓練班が組織された。
 1ヵ月の政治学習、2か月の技術教育の後、上海、北京での映画の仕事を支援する幹部養成が目的であった。
 持永の班にも5人の少年がやってきて、画が上手ではなかったが、動画の技術の基礎になるデッサンから教え、大変な努力の結果1年間で動画の中割が出来るまで上達した。
・その後、「東北電影製片厰」設立。全国から30年代からの映画人、文芸活動家が興山に集結してきて新中国の映画根拠地になる。
 新中国になって最初の動画『瓶の中で捕えた亀』の企画。八路軍が蒋介石軍を包囲して打ち破るのがテーマで、瓶は包囲をさし、亀は蒋介石を意味していた。
 その後、『瓶の中で捕えた亀』と『民主東北(ニュース映画)』を二本立てで農村に巡回映写に行き、大歓迎される。

・中国は古くから人形劇や影絵が盛んで、中国共産党は「中国の伝統ある人形劇と映画を結び付けたい」という想いなどから、持永は人形映画の研究を続けた。
 操り人形を使ったニュース映画や『皇帝の夢』という30分の人形映画を作った。
 木村荘十二が絵を描く時に使う関節のついたモデル人形を持っていたので、これにヒントを得て、関節人形を数種類制作して人形映画を撮影する。



・1949年、北京が解放されると持永らは北京入りをして、今後の中国のアニメの諸問題について話し合い、「上海電影スタジオ」を建設。
 上海では、蘇州、杭州、上海などの美術学校の生徒も集められ、戦前『西遊記・鐵扇公主の巻』を制作した万兄弟も上海で作品を作っていたのでスタッフもいるだろう、という予想であった。
 新聞で募集をすると120人集まり、うち半数が万兄弟と一緒に仕事をした人達であったという。
 (持永が上海に居たとき、3番目の万超塵を除き万兄弟は香港に住んでおり、持永が日本に帰った後万兄弟は上海に戻った)
・持永は中国残留中、『子猫さんありがとう』(1950年)、『小鉄柱』、『子猫の魚釣り』(1952年)など6本の演出をした。
・しかし、日本人である自分がいくら努力しても、中国人の肌合いとは違うものができたという国民性の違いや、
 中国のスタッフが人を頼りにして、自分の力を根底とする考え方に欠け、持永に各個人が質問に来るが、その知識や技術を自分だけのものとして抱え込むことであったという。
 持永は「皆の力がひとつになれば、私がいなくてもやっていけるはずだ」と言い、その後スタッフは討論の結果、皆で協力してやっていく、と結論を出し、持永の帰国の決心がついたと言われているという。
・1952年、日本に帰る。

・1984年、「上海電影スタジオ」にて『喵呜是谁叫的』制作。



(政岡が瀬尾へ出した条件の「政治活動をしない」というのは、瀬尾が制作していたプロキノ(プロレタリア映画同盟)などのことであるだろうか。
 ・プロレタリア映画同盟というのは1929年に結成され、度重なるメンバーの検束から1934年には解体してしまう左翼映画制作・上映団体であった。
 1925年に「治安維持法(言論・思想弾圧法)」が制定された後、国による左翼・思想・言論弾圧や映画検閲の強化される中で官憲が監視の目を光らせている対象のひとつであり、
 『蟹工船』などの作者であり反政府運動を行い、1933年に逮捕、拷問されて命を落とした小林多喜二は「プロキノ友の会」の発起人の一人であった。
 ・プロキノで制作されたアニメは、ドイツ帰りの村山知義が「切り抜き法」で制作した『アジ太プロ吉消費組合の巻』を筆頭に、
 『3匹の小熊さん』、小林多喜二原作の『不在地主』の一部、瀬尾の『三吉の空中旅行』を最後に6本制作されたようだ。
 ・プロキノではアニメ制作の専門家もおらず、制作のノウハウもない中で撮影台の制作から始めたという。
 ・「J.O.スタジオ 漫画トーキー部」の母体となる「童映社」の子供向けに制作された影絵アニメ『煙突屋ペロー』も、「戦争をなくし平和に暮らしたい」というストーリーとメンバ

ーの既知の交友からプロキノで上映された。)

(『あひる陸戦隊』では、タイトル直後のカット。右方向へ歩いているあひるを描き、あひるが分かれ道を左へ曲がる様子を、美術の背景からセルを使った背景動画へと繋げ、あひるの

おしりがアップになる部分が立体感も出ており秀逸。)




人形アニメーション作家・真賀里文子さんに日本の立体アニメの祖・持永只仁氏のことや制作技法についてインタビュー


混声合唱組曲『悪魔の飽食』 全国縦断コンサートプロデューサー  持永伯子     
中国のアニメの発展に尽力した父




1928-45 年におけるアニメーションの言説調査および分析

財団法人徳間記念アニメーション文化財団年報 2006-2007

日本のドキュメンタリー作家 No. 5 プロキノ
影絵アニメーション『煙突屋ペロー』とプロキノ--1930年代の自主アニメーションの一考察--

乾孝が制作した1930 年代の人形アニメーションの発見と評価

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by breakmag | 2014-02-17 12:14 | アニメ
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