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by ふっふ
 
今、ネットで見られる!日本のアニメ 戦前・戦中・戦後 ~戦前①~
 大学の卒論を書く際、戦前、日本の商業アニメの始まりを調べていました。 

 戦前中後のアニメ作品は図書館で借りたり、DVDが購入できるようですが、Youtubeなどの動画サイトにアップされているものをいくつか見つけたので、紹介と併せてまとめたいと思います。

Youtubeへのリンクを貼るため重くなってしまうので、ご注意下さるようお願いいたしますm(__)m



1896年、映画が発明された翌年、既に日本に映画が輸入され、日本でも映画制作会社が始まります。


『愉快な百面相』や『ニッパールの変形』が、初期に上映されたアニメです。

3人の創始者が挙げられ、下川凹天、北山清太郎、幸内純一という3人が挙げられています。
それぞれが独自のやり方で制作していたそうで、
①下川凹天の最初の方法は、撮影技師を前に立たせ、黒板に白墨で描いていき、手を動かすところは手の部分だけを移動させ、要らない部分を消していくという方法であったという。
それでは不便だったので、助手を一人雇ってもらい、背景を3種類くらい印刷しておいて、人間や動物はその上へ、背景をホワイトで消し、ブっつけに描くことにしたらしいです。
その第一作が『芋川椋三玄関番の巻』で、出来は良くないものだったらしいが、それが逆に可笑しくて拍手されたりしたとあります。
撮影方法も考え、木製の暗箱を作り、中に電灯を付け、箱の上の部分を画の大きさだけガラス張りにして、電灯の光で画が引き写しになるようにしたといいます(それを撮影したってことかと思われる)。
しかし、下川さんはこの撮影方法で眼を痛めてしまい、アニメの仕事から手を引きました。


②幸内純一さんは『なまくら刀(塙凹内名刀の巻)』を一作目とし、
 『なまくら刀』を見ると、下川の、1枚1枚絵を描いていた方法とは違う、「切り抜き法」と言う方法で、
 黒い実線は黒い紙を切り抜いて作られていると思われます。
 後に活躍する大藤信朗が弟子入りします。その後、大藤さんは、主に切り絵アニメーションという方向でアニメ制作を行っていきます。

③北山清太郎は、『猿蟹合戦』『桃太郎』『一寸法師』の昔話や、『雪達磨』『腰折れ燕』などの新しい童話で制作した。
『日本初のアニメーション作家 北山清太郎』著・津堅 信之
幸内の部分に貼ったYoutubeの動画では『なまくら刀』の発見が取り上げられているが、それと同時期に北山の『浦島太郎』も発見されたという。
北山の制作方法は、白紙に1枚1枚、動画を描き、背景も描くという「推稿法」または「稿画式」と言われる方法であったという。
批評家は「鳥獣の動きに遠近法の欠陥があり、全体に動作が速く、構成上にはまだ研究の余地が十分ある」と言っていたそうだが、裏を返せば、それを言えるだけの取り組みをしていたということであり、遠近法を抱かせるほどの動きなどを行っていたと言うことではないだろうか。
北山の下には、後に東映で取締役となる山本善次郎(山本早苗)を初めとする17,18歳の弟子がおり、集団制作体制であったという。
撮影は昼間のうちの、午前9時から午後3時だけで、太陽光線を間接的に利用したという。
カメラを窓際に据え付けて撮影するが、自動のコマ撮り機能がないので、1コマずつ手で回していたという。
 また、当初は1枚1枚描いた絵を撮影する「稿画式」であったが、「切り抜き法」という、背景の上に動画を切り抜いた”切り抜き画”を置いて撮影する方法に変えた。
セルロイド板によるセルアニメが現われるまで、日本のアニメ制作では「切り抜き法」が使われるようになった。


大正13年・1924年、ドイツの『カリフの鶴』という”影絵映画”が公開される。
紙型切り抜きの影絵映画で、手や足、首などの関節を蝶番でとめ、これを少しずつ動かしては撮影するものであった。


大正15年・1926年になると幸内に弟子入りした大藤信郎は、日本独特の千代紙を使用し『馬具田城の盗賊』『孫悟空物語』を制作、「千代紙映画」制作で独立する。
当初は、「切紙細工映画」と発表したそうだが、千代紙を使用しているので「千代紙映画」と呼ばれるようになったという。
千代紙で造った背景の前で、千代紙で造った人形がマンガ映画のように動作する者で、当時としては大変珍しがられたものである、と大藤は述べている。
大藤は、『カリフの鶴』を見て以来、「影絵映画」を作る夢を持っており、昭和2年に『鯨』の制作に着手する。
大藤は『鯨』制作にあたり、日本においてまだ貴重であった「セルロイド」を使用する。


大正12年・1923年、関東大震災が起きる。後に「切り抜き法」アニメで随一となる村田安司は、松竹で働いていたが、松竹が震災を機に本拠地を京都に移すということで、横浜シネマ商会に移る。しかし、当初は映画のタイトル描きをやらされていたという。
余談であるけれど、前述の北山も、映画のタイトルの改良に大変興味を抱き、担当していたという。
横浜シネマ商会は、J.R.ブレイのアニメ映画の人気に刺激されアニメ制作に着手する。
「アテナ・ライブラリー」という短編シリーズを始め、大正12年暮れの『雪』から、大正末までに17本、昭和10年頃までに70余本も制作をする。



村田安司は、J.R.ブレイの作品を見、研究し、友達である山本早苗を訪ねては制作方法を勉強していたという。
昭和2年、「切り抜き法」を使い『猿蟹合戦』を完成させ、同じメンバーで『蛸の骨』を制作します。
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by breakmag | 2014-02-07 21:15 | アニメ
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